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【プロフィール】
ポールスミス PAUL SMITH
1946年7月5日、イギリス、ノッティンガム生まれ。
少年時代から独立心の強かった私は、得意としていた自転車競技で身を立てるべく、15歳の時学校を自主退学し、レーサーをめざして毎日特訓に励み始めた。しかし、不幸にも事故に遭遇。重傷を負い、半年間の入院を余儀なくされたため、レーサーへの道を断念せざるを得なくなった。
退院後、進路を断たれ、なす術もなく、パブに入り浸りの毎日が続いた。しかし、やがてそのパブに出入りするアートスクールの学生達と仲良くなり、彼等のオーガナイザーとしてあれこれ仲介役を果たすうちに、アートの世界の魅力にしだいにひかれていった。そして、さまざまな仲介を自分自身の仕事にしてみようと決心した時、私は17歳だった。
新しい進路を見出した私は、あらゆる依頼に懸命に応えた。シャツの工場を探してくれと頼まれれば、その仲介はもちろん、仕上がってくるまでのさまざまな手配も積極的にこなしていった。 3年が過ぎたある日、ロイヤルカレッジでテキスタイルの教師をしている一人の女性と知り合った。ポーリーン・デニア。私たちはお互いの生活信条にひかれ、やがて同居を始めるが、ポーリーンには2人の子供と2匹の犬という同居人がいた。私は20歳にして“インスタントファミリー”の長になってしまったのである。 私は家族全員を養うために、それまで以上にあらゆる仕事をこなし、懸命に働いた。
一時期、メインの仕事はノッティンガムのテーラードの店員だった。少しでも多くお金を稼ぎたいと思い続けていた私は、事あるごとに店の主人に自分の店を持ちたいという話を訴え続けていた。
そんなある日、私のあまりの熱心さに押された主人は、私にその店のバックルームを自由に使わせてくれると言った。私はすぐさまショップ作りに取りかかった。壁を塗りかえ、電気をひき、窓がなかったので壁をぶち抜いて窓をつくった。そして、月曜から木曜までは従来通りあらゆる仕事をこなし、金曜と土曜は自分のショップで商品を売った。もちろんオリジナルと呼べるものは、ポーリーンが縫ってくれた数本のネクタイくらいで、ほとんどは自分で探し回って仕入れてきたわずかな商品だった。
当時、ノッティンガムではメンズファッションショップと呼べるような店は一軒もなかったので、私はここを魅力のある特別な店にしたいと思い、必死に頑張った。そして自分のやりたい事をやるという信条は、決して崩さなかった。現在でも私は、ひとつの考え方を大切にしている。 "The job change you, you don't change the job." - 『仕事によってあなたは変わる事もあるが、あなたが仕事を変えることはできない』というものだ。
24歳になった1970年、私はポール・スミス リミテッドを設立。その後4年間で専門的なデザインワークとビジネスについてのあらゆることを、実際の仕事を進める中で学び取っていった。ノッティンガムのショップや、オーガナイザーとしての私の仕事ぶりは、やがてロンドンのファッション業界で噂されるほどになっていた。
そして1974年、その噂を聞きつけた「ブラウンズ社」に、専任のコーディネーター兼デザイナーとして採用された。私は自分のショップを経営するかたわら、3年間同社の買いつけとブラウンズブランドの商品デザインを担当し、同社の名声を高める大きな原動力となった。ノッティンガムのショップは、私の噂の高まりとともに、顧客の数も増し、月曜から金曜までフルに営業するほどになっていた。
そこで同じノッティンガムでもう少し大きいスペースを探し、そこに店を移転することにした。この時、私は初めて自分自身のオリジナルブランドを作ろうと決心した。手始めにシャツ工場に、自分のデザインで自分のブランドロゴ入りのシャツを依頼、出来上がってきたシャツを自ら売り込みに回った。この時、初めて買ってくれた客は、ニューヨークの有名ショップ“バーニーズ”のオーナーの息子だった。宿泊しているホテルを聞きつけて押しかけ、一枚ずつ説明する熱心さに感心して、200枚の購入契約をしてくれたのだった。
1977年、初めて自分のコレクション・ショーを開いた。とは言っても、もとより資金の余裕などなかった私は、当時、ドロテ・ビスのデザイナーであったキース・バーティとアラン・クリーバーが所有していたパリのアパートメントの一室を借り、そこを会場にした。モデルは友人をかり集め、フィッターもポーリーンや友人が担当した。会場用の椅子は、私がアパートの隣り近所をかけ回って数十脚を揃えた。スーパーでシャンパンを買い、借り物のグラスを並べ、自分の家から持ってきたステレオで音楽を流すという、何から何までチープな仕込みではあったが、ショーは大成功だった。
翌年から、毎年パリで展示会を開けるほどになった。 1978年には、セームの展示会に期間を合わせ、パリのホテルの一室で展示会を一週間催した。私にとってはこの時が、本当の意味での“ポール・スミス”コレクションの誕生だったと思っている。展示会の設営、招待状の発送など、自分の手で懸命にやったが、初回は残念ながら、一週間でわずか2人のバイヤーが訪れただけだった。しかし、回を増す内に、その数も大きく増していった。 展示会の受注後は、いつも多忙だった。工場の生産手配、納品チェック、梱包発送、請求書作りなど、全て私一人でこなさなければならなかった。
しかし、そんな多忙な時期でも、I・W・S(国際羊毛事務局)のデザインコンサルトや、著名な素材メーカー「レイ・ミルズ社」のカラーコンサルタントなども兼ね、実績を着々と重ねていった。こうしたキャリアによって、私はデザインとビジネスの両面のノウハウを自然に身につけていくことができた。
1979年、33歳になった年、念願だったロンドン市内にショップをオープンするチャンスがめぐってきた。場所は元々野菜市場だったコベントガーデン。1974年まで、この地域は果物屋が軒をつらねていたが、その後市場全体が移動し、廃墟になっていた場所だった。ここに私は目をつけ、コベントガーデンで初めてのショップを開こうと考えたのだった。購入しようとした場所は、以前バナナの倉庫だった所で、オーナーは3万5千ポンドで売ってくれと言った。
当時もまだ資金力の無かった私は、以前働いていたテーラーの主人に1万ポンドを借り、銀行からも5千ポンドを借りたが、まだまだ不足だった。そこで再度オーナーにかけあいに行った。私は現在集まっている資金額をありのまま話し、どうしても購入したいのだと訴えた。
オーナーはその熱意に負け、売り値を2万5千ポンドにダウンした上、不足分の1万ポンドを自分自身が貸してやろうとまで言ってくれた。こうして、コベントガーデンショップが誕生した。現在この店は、その後10年間に隣接する店を次々と買い足し、4店が並ぶ規模に成長している。
ロンドンのみならず、世界のファッション市場で、ショップの評価はますます高まっていった。これを裏打ちするように、1982年にはロンドン、アベリロウに、1984年には日本の東京青山に、1987年にはニューヨークに、次々とオリジナルショップが誕生していった。また、1989年には英国の名門デパート『ハロッズ』に単独のコーナーショップがオープン。これはハロッズの歴史上、かつてない展開であった。
現在、私の顧客をピックアップすると、各分野の世界的リーダーと言える人々が顔をつらねている。こうした実績は、当然国家に大きく寄与し、1997年に労働党の新政権下にある文化・メディア・スポーツ・創造産業に関する特別専門委員会への参加を招請された。また、2001年、デザインへの勲功によりエリザベス女王よりナイト爵位(SIR)を授与された。(ポール・スミス日本語公式サイト)
【問い合わせ先】
(株)ジョイックスコーポレーション
03-5695-1335(東京)06-6942-6581(大阪)
【ショップ】【関連サイト】
2007/12/28 写真家マーティン・パー、ポール・スミス秋冬コレクションを撮影 by AFP BB ニュース
英国出身の写真家マーティン・パー(Martin Parr)がデザイナーのポール・スミス(Paul Smith)とコラボレートし、ロンドン市街で一般市民をモデルに07/08年秋冬コレクションを撮影した。パリや東京のポール・スミス店舗では作品の一部を紹介する展覧会が開かれ、店内では開催にあわせ発行されたピンク色の新聞「ファッション・ニュースペーパー」が発売された。(c)AFP/parismodes.tv
2007/6/13 ポール・スミス、フォーブール・サントノレ店オープン by AFP BB ニュース
ポール・スミス(Paul Smith)がパリのフォーブール・サントノレにショップをオープンした。店内には、服やアクセサリーの最新コレクションの他、本や家具、小物類などが揃う。壁を飾るのは、ポール所用の絵画作品だ。(c)AFP/parismode.tv

Paul Smith Paul Smith (著), William Gibson (序論)
レビュアー: 尚子 (東京都)
イギリスで最も成功したといわれるファッションデザイナー、ポール・スミス。本書には彼のデザインやファッションに対する考えが写真とともに、ぎっしり詰まっている。自伝的な文章から、日本の印象、自身の旅の写真、おまけやポスターまで充実の内容。さらに、レイアウトやレタリングと細部までポール・スミスの世界が表現されている。中身はもちろん英語だが、日本語の部分も少しある。 この本を読んだら、必ずポール・スミスの服が欲しくなります。
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