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新しい服を着た「ファッション論」をお届けしています。わたしがかねてからファンであった素敵なイラストを描くこのサイトの編集をやってくださっているMARIさんのご協力もお借りしてのリニューアルです。1998年の秋から書いてきた「ファッション論」の最後の冒頭にも書きましたが、読みやすさをできるだけ心がけ、ここではより日常のなかの服をとりあげますが、基本的に服を探求していく姿勢は変わりません。ファッションという言葉は不思議です。もともと服という実質がファッション・モードという現象を帯びて、ファッションそのものが服という意味としても使われたりします。「ファッションは死んだ」と現在言われているようですが、この複雑なファッション環境のなかで、「ファッション」という言葉をわたしはあえて用いたいと思っています。それと同時に服そのものを抽出する作業を繰り返し、研究者としての、また「着る人」としてのわたしの存在も続いていくことになるでしょう。
以前勤めていた会社のわたしが所属していた部署のなかに「ファッション企画室」というセクションがありました。わたしが退社したころ、名前を変えるということで確か「情報企画室」というような名称に変わったと思うのですが、そのとき「ファッション」という言葉が消え、わたしは残念に思ったのをいまでも覚えています。ファッションは単なる衣料品の流行現象と捉えられがちですが、もともと流儀やマナーという意味もあり、やり方・スタイルなどをも意味します。当時の総部長も「ファッション」を一義的な意味で捉えていないことを雑談のなかで一社員のわたしにもらしていました。その知性に感銘を受けた若き日のOLのわたしがいました。神戸市立ファッション美術館も、ファッションを「衣」に留まらない、食・住や映像、美術なども含めた広い意味で使っています。これは建設準備室の段階で学芸員の方がおっしゃっていたのを記憶しています。ファッションは時代の風であるとよく言われますが、これらの意味とあわせて、わたしもつねに時代を意識しながら「ファッション論」という言葉を残し、副題を更新します。
著者としてのわたしは、服そのものへ行きたい。でもときおり全部脱いでしまいたい!と地下鉄などの乗り物のなかでつまり公共の場で衝動的にたびたび思います。素朴な「着る人」であるわたし、そして言葉=服として衣服の詩学を探求したい詩作活動をしているわたし、そしてとってもしんどい言語によって学術的に服を研究しているわたし、この三つの自分がこれからの書き物でバランスよく出ればいいなあと思っています。回によっては、どこの部分がより強くでるかという風になるのかもしれませんが。たぶん食いしん坊の自分や、音楽に耳をすっかり捧げてしまった自分も、そういう「ファッション」の意味ででてくると思っています。あ、あと、大切なもの。関西人としてのわたし。感情を抑えられず思わず発してしまうだろうわたしに出くわした際は、どうかお許しを!

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