No.5 (2008年3月)
3月某日 おひなさん
おひなさん、出しなさい、と母から連絡が来てたのはいつだったか?本日やっと二体雛を出す。
3月3日より前に出すのは久しぶりだ(といっても、今日は前日の2日)。いつも遅れるので、旧節句だと言ってゆっくり出して4月までというペースだった。もう一年経ったのか。顔にかけたやわらかい布をおそるおそる解きながら、眠っていた眼を開いていくように、そして御髪を整えて。
時間なくて、桃の花も菜の花も買えなかった。毎年のことなのだが、3日過ぎるとこれらの花は(あるいはこの組み合わせ、両方一緒には)まったく花屋で手に入らなくなるのを知っている。近所にできたショコラティエでオレンジのチョコレートをふんぱつして買ってお供え。あられより確実にカロリー高いかな。
いろんなところで書いたが、わたしのおひなさんはわたしに似ている。古い知り合いの木目込み作家さん(着物のことなどはいつもこの人から学んでいる、押絵作家でもある)がわたしのために作ってくれたものだ。妹のは妹に顔が似ている。姉妹にどちらが渡るかわからないまま彼女は作っていたらしいのだが、嫁ぎ先に行って中を開けてからはじめて気付く。あるいは、いつのまにか似てきたのかなあ。人形の髪って伸びるらしいし。
入試の面接や採点業務なども一息ついた三月、これまでの緊張感と溜まっていた疲労が出たのか、体に何か重いものが押し寄せてくる感じですこぶる調子が悪い。おひなさん(おだいりさんはどないなってんねん!)の前で手を合わせて、祈るようにして、こころを無にしてみる。
3月某日 潜水服は蝶の夢を見る
色んな映画を見落として、もう半年以上映画館に出掛けていなかったなあ。
そんなことを思いながら、ひさしぶりに映画館にいる幸せをかみしてた。今話題の「潜水服は蝶の夢を見る」を見てきた。映画のタイトルが印象的で、はじめて目にしたときから、行くべし!と思っていたのだが、原題に忠実に訳すと「潜水服と蝶」になる。なんでこのサブタイトルになったのだろうか。
話し言葉は基本的なコミュニケーションであり、書き言葉の「人間性」をあらためて知らされる。それが技術的「遠さ」をはらむ媒体のときには、愛人へのメッセージを妻が声に変えなければならない不幸な状況がうまれる。「話す」ことができなくても「書く」ことで伝えられる、記憶と想像力さえあれば。
「潜水服」という単語、ファッション誌『エル』の元編集長の自伝、そう聞いただけで見たかったと思ったわたしは面食らった。あっという間に映画が終る。知覚、言葉、認識、人間とは何かということを考えなかったといえば嘘になる、すごい映画だった。
3月某日 燃えるピアノ、防火服のプレイヤー
「僕の考えるJAZZ」というタイトルでCDが届く。すがるようにこれ聞き始めた日、ちょうどCDにも入っていたピアニスト山下洋輔の映像をニュースで見た。彼が海辺で消防士みたいな衣裳を着て、炎に包まれたピアノを弾いている。無茶なことするなあ。なんやすごすぎる。ライブで見たなるやないのん。聴いてるCDも燃えそうです。編集されたJAZZだったのですが、わたしが唯一知っていたのが山下洋輔が参加しているSoft Waltzだけだったので。
燃えるといえば、リボンもの。わたしは映写機あるいはオープンリールを想像しています。MDも好きで。あのカセット感みたいな、がちゃがちゃ、と、かちかち、っと、リボンものはもともと好きですが、リボンが一生懸命トワリングしてるかんじが頭で描かれて、曲が流れると、それで。ああ、何書いてたんやったかな、そう、燃える。
わたしはジャンル、ジャンルをまたがって、ジャンルをこえようという意志などでなく、そんなかんじの、「燃え」(萌えじゃないよ)なのです。尽きて、失速、というより、減退、してるかんじで、完全に、戻り道、回り道、で時間旅行を最近のわたしは地で行っている。
燃えています、ヘルプミーアウトの間隔がどんどん狭くなっていき、ピアノを離れて、しばらく。それでわたしはそのJAZZの返禮に、楽譜のダンスがとても美しい、音楽を送ることにします。テレパシーで送れたらいいのになあ。最近信じられるのはテレパシーだけ。あ、これがもしかして、火薬女?わたしに火薬女になれ、と言った人、教えてください。
3月某日 ふだん着と社交性
自分でも着られるので着物をよく知っている妹と「モスリンーちょっと昔の普段着きもの」展へ行く。神戸のファッション美術館と同じく、京都古布保存会の企画だ。会場は「大阪くらしの今昔館」。モスリンは幕末から日本に入って来て、明治時代に最初の工場が大阪に建てられたこともあり、大阪の産業として栄えたそうだ。明治から昭和初期にかけて流行し、大正時代には独自の染色技術でヨーロッパに輸出もされたらしい。戦後は衰退。
モスリンは毛織物であることから、傷みやすいし、日常着が中心、あまり残っていないこともあり、すごく貴重な展覧会。しゃりっとした感じで発色のいい襦袢などを想像するとわかりやすい。あとは子供の着物とか。普段着だけれど色柄にお洒落心がめいっぱい表現されていて、展示を見ているとなんだか爽快な気分になってくる。大阪中心だったからか、なんかユニークな文字やデザインも満載。「親子で楽しむ企画展」ともあるように、子供にもわかりやすいようなガイドがついたり、日によっては親子向けの企画もたびたび盛り込まれているようだ。
「いやあ、なつかしいなあ」「こんなん、着てた、着てた」と、女性3人組がわたしたちのすぐ後ろあたりで展示を見ている。わたしたちの母親くらいの年代か少し上くらいの人たちだと思う。この紐なんやろう、これって襦袢?着物にしては派手すぎるよなあ、などと、妹と会話しながら、疑問いっぱいで見ていたのだが、妹がすぐ彼女たちに近付き、聞いてみよう、と質問しはじめた。
わたしは研究上必要で来ているが、個人的な興味も多い。「モスリンは軽くてあったかいから」「ずっと着てたし、いまでも着ることあるよ」「わたしの母親とかは寝間着にもしてたなあ」「この柄は当時流行ってんよ」「戦争のときとかは中で思いっきり派手にするしかなかったね」「モスリンはすぐ虫が食うから、古なった着物をつぎはぎしたりして」-いつのまにか、彼女たちの年齢まで妹は聞き出して、いろんな知識を入手していた。
彼女たちは目を細めてうれしそうに昔のことを思い出して話をしている様子。この柄行、イキやね、とか、思い出として眺めるだけでなく、「今着るもの」としての目でも楽しんでいる。ある意味飾られているだけの死んだ着物が、実際に着ていた人たちのこぼれ話を通して、生き生きと人が着るものとして浮かびあがってくる。恐るべし、妹よ。わたしのことを社交的過ぎるといい、ふだんは家に閉じこもって、犬と遊んでばかりいるのに。
3月某日 文字を書きたい
突然文字が書けなくなる。
かなりの恐怖でした。これはほんとうにマズい状態なのではないかと思う。いままで本読んだり、自分で分析したり、前向きに行こうと努力したり、してきましたが。人といるときは楽しい方がいいのであんまり愚痴とか言いたくないし。皆聞きたくもないでしょう。自分のことばかり話す人も多いし。嫌なこともほっとけば忘れるかもしれない、または状況も変わるかもしれない、とか。
去年の冬あたりから、かなり体がしんどかったが、今年明けてから、悪化していっているかんじがする。授業がない三月、少し余裕ができるので、いまのうちにと、病院へ行く。医者も薬も大の苦手です。誰でもそうですよね、というと、案外、そうではない、と言う人がいるのも最近知りましたが。
他人様に頼るというわけです。そんな、、。蓋を明けると何が出てくるのか。想像するだけでも恐い。魑魅魍魎が。百鬼夜行のように。しかし、助けて、の感覚の間隔がどんどん狭まっていってたので、誰かに頼る時なのだろうか。
文字を書くにはバランスが必要です。文字をイメージして。このあいだ見た、聴覚とまばたきだけでアルファベットを綴っていく「潜水服は、、、」の映画を思い出したり。文字を打つ、口述筆記、色んな方法がある。でも、文字を書きたい。書けない。そのときはじめてほんとうに泣きました。
3月某日 色について
東京に出張するのにいつものホテルまで取りましたが、当日体調すぐれず急遽中止。当日のキャンセル料は高いし、痛い。前日何度も時間変更してまで無理して髪まで切ったのになあ。しばらくずっと家で寝てて誰にも見てもらえなかったわ。
その後は仕事入っても、行けなかったり。体が鉛のように動かない。這うように有給休暇申請の連絡するだけで精一杯。
パソコンが夜になると重くて動かなくなる。機械と人間は同調する。
なんだか無性にイギリス映画が見たく、正確には聞きたくなる。
なんだか無性にフランスの葡萄酒が飲みたくなる。
香港で飲茶。バリ島でジェゴグ。これくらいかなあ。わたしの色(しき)。あとは、低い声くらい。
3月某日 友達もここで働いている
職場の近くのお店屋さんで友人が働いているのを発見。学生ならアルバイトしててもおかしくないところだけれど。びっくりした。
彼はそこで正社員で働いているらしい。仕事に行く前、見つけては、立ち寄って、おちょくったりして、おすすめのものなど購入します。そんなかんじで、気を取り直して、生きます、働きます。出張はなんとか次週へ振替ができた。
今年のモットーの「遊ぶぞ」を、気合い入れ過ぎたのかなあ。所詮、お姫様でもお嬢様でもないので、働かなあかんし、仕事が嫌いというわけでもないし、たぶん好きなので、そう簡単に休んだりできない。休みたくもない。
でも無理しすぎたのか。あるいは自分の限界を知らないままだったのか。休んでても遊んでてもしんどくなってしまう。体とこころはつながっていて、そう簡単には解明できない。自分で何でもできるのだ、と決めつけて、過信していたのかもしれない。
晩ご飯でも食べよう、と誘うと、彼はお昼の1時から11時まで働いている、と言う。残業した日でもどうかなあと思っていたが、そんな時間に店開いてないか。友達が近くで働いている。なんだか心強い。体壊さんようにね。
3月某日 それは「ゲロ展」ではない
横浜美術館「ゴス展」。月末までにゴシックロリータの身体感覚についての論文を書き上げなければならないので、展の内容はどのようなものか、とにもかくにも押さえておかなければならない。
ご一緒した方は、自分でデザインした(染めた)服を、ロングの羽織コート風にさっそうと着ておられ、つばのある帽子に薄い水色のコサージュを後ろど真ん中に飾り、わたしが以前差し上げたヴィヴィアン・ウエストウッドの薄い赤のシルクのスカーフと合わせておられた。
わたしは。体調がずっと悪くて、化粧もできないし、服も選べない、が続いていたので、かろうじて手が伸びる服が、20年くらい着ているギャルソンの何もデザインされてないただの布みたいなワンピース、その上に色々な黒を重ね着する。あとはご一緒した方がデザインしてくれた、たぶん古布の黒いスカーフをだらーんと垂らして。
人は死ぬ時でも手を握りたい(繋がりたい)と思うものなのだ。その繋がった命と命(手と手)、そのノットのようなところの、もろさ、こわれ、などを、語る。リッキースワローの作品のなかにおもしろいものが色々あった。現代のアートシーンと呼ばれるもの、すべてがサブカルチャーとして横並び、スピーディに消費されていくこと、だってそんな時代だからという理由、そしてジャパンという国イメージの呈示するもの、そう、彼ら、彼女ら、わたしたちは、ここではない、どこかへとにかく行きたがっている。
でも、ただジャンプすればいいってもんじゃない。幼児性。超えられない「新しさ」という概念について。そんなことをまじめに話すというよりは、わたしとその人は、皆アートスペイスを神妙な顔でそぞろ歩いていたのに、時にけらけら笑ったり、「ここが、惜しい」「これ、間違ってる」とか言いながら、まじめにアートに取り組んだのであった。
ベンチで一句詠んでるし。ほんとにそれにしてもすごい人と一緒に今回上東しました。ふだんのわたしなら泊まれないような宿泊先も予約することができました。また先週みたいに体調崩れて中止にならないかすごく心配で、出掛ける前日、いままで行く事が絶対想像できなかった避難所へ助けを求めにも行きました。充実した出張。いい本もたくさん見つかったし。わたしは連れて行って差し上げるつもりが、わたしは連れて行かれたのでした。未熟なかんじで、大したお礼もできないので、口紅とコンパクトを差し上げました。
しかし、「ゲロ展に」とか「ゴロ展に」とか、言い得て妙とも言える言い間違いで、「連れて行ってもらったー」とうれしそうに話されるのが、わたしはとても幸福でした。
3月某日 表現するということ
わたしには希望のようだった。小さな光みたいな。それが遠くから近づいて、大きくなっていたのに。京都では「知識労働とプロカリアート」というテーマで壇上に立って語る予定だったアントニオ・ネグリ氏が、日本政府からの入国許可が直前でおりなくなり、来日が中止になった。東京は数日間色んなイベントで盛りたくさんだったが、京都はつつましく講演が行われる予定だった。
しかし、ネグリ氏不在のまま、シンポは行われるらしい。東京帰りだし、上洛するか直前まで迷うが、当日「わたしは行きます」というメールをわたしにくださった人がいて、その人に会いに行くようなつもりで、出掛ける。それは意味のあることなのだ。
当日読む予定だったという原稿(「大都市とマルチチュード」)の日本語訳を司会者が壇上で読む。わたしは不覚にもいつのまにか眠ってしまった。そのあと客席からの質問も交えた討論が、かみあわないというより、ぎくしゃくしてる感じではじまりつつも、少しずつ、トーンがついてくるかんじで、長引き、十分おもしろかった。
ネグリ氏のパートナーであることを知らずにルヴェル氏(政治犯歴はないがネグリと同行ということで不許可)を別に招聘していた先生も、どこにどのようにこの怒りに似た戸惑いを訴えてよいのかわからない、と言う感じで手をあげられ、いろんな仕事を断ってこの機会を優先させた苦労を訴えたい老先生もいらっしゃった。誰に、どこに、どのように、何を、訴えねばならないのか。訴えるべきなのか。ネグリ氏不在だから来ることにした、と語りはじめた学生らしき若い人。どう表現しようか、表現するべきなのか。そして、表現しなければ。わたしが京都へ向かうかどうかを直前まで迷っていたように、「自分はいまここで果たして、、、」のその先を、それぞれの立場で考え、行為するための機会として、わたしたちは今回のこの予期せぬ状況で起こった事柄から学べた機会だったのではないか。
ネグリ読みがちゃんとできているかどうかもわからないわたしなのに、こんなことを帰りの乗り物のなかで色々と考える時間を持つことになった。来場者の中に知っている顔がたくさんあって、その人同士も実は知り合いだったとわかったり、そんな状況がうれしかった。わたしもこの人々の中に同じ時間同じ場所にいることを選んだということが。
3月某日 その色の服を着た人
「あ、あの、半袖Tシャツにネクタイ、の人ですよね」
一度会っただけの人で、名前も顔もよくは知らないが、服装だけよく覚えていることが多い。長身の若者。本人はずいぶん前で自分が着ていたもののことなど忘れていて、はあ?という顔をしていて。ほらほら、半袖Tシャツにネクタイ、あー、あれだいぶ前のことですね。
会う場所は、古本屋、ギャラリー、ライブハウスと特殊な空間ではあるけれど、神戸、大阪、京都という場所や時間帯を問わず、なんだかよく出くわす方がおられる。たぶんお坊さんだと思うのだが文筆業もやっておられて、ほんとによく会うので、びっくりします。趣味が似ていると活動範囲が限られてくるので、まあよくあることなのかもしれない。しかしなあ。不思議です。わたしはあんまり出歩く方でもないので。でもその方がどんな服装をされていたのかまったく思い出せないのです。おたがい「また、会いましたね」と声を交わすだけで。
今日、わたしは、なにを着ている?AからGの5本の音叉を鞄に入れて持ち歩く。けっこうこれが重いのよ。