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脱いでしまいたい、あるいは、服そのものへ!

小野原教子

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vol.42 日傘とデザイン ― 働かざる者、着るべからず? (2006,7,23)


ずっと使っていた薄いグリーンの日傘をなくした。これまでは主流でなかった黒い色の日傘は、UVカット仕様ならかえって太陽光を吸収するのだとその効果が語られ流行しはじめてから、真夏のある日に衝動買いした。それもすぐ折れてしまい、草模様の日傘も見つからないまま、帽子でやり過ごしてきたが、今年はやっと日傘を買うことにした。

晴雨兼用が便利だが、最近の日傘は軽さを重視するので、その分とても壊れやすいというのは傘売り場ベテランらしき店員の説明。開くときのコツ、閉じるときのコツ、傘の収納の仕方もろもろ、彼女の知識を存分に引き出すべく、レジでしばらく話しをして、開閉の練習までしてから、購入する。

自分の持っている服を考えると、迷ったオレンジ色や生成りのものはやめて、やっぱり色違いで黒にする。ヴィヴィアン・ウェストウッドの緑色のレースが縁取られた黒い日傘。透かし模様としてオーブが散りばめられていて、外側よりも開いた内側から、つまり差した自分の側から見えるデザインが気に入った。美しい模様に彩られた空は、傘を差す「わたし」が仰ぎ見る、夏の暑さや雨の日のささやかな喜びになるのだ。

日傘を買って店を出て、しばらく歩いていると、小雨が降ってくる。洗濯した途端に空模様があやしくなって雨が降る、出掛けようとするとどしゃぶりの雨になる、そんなわたしの雨女の日常は鬱陶しいが、買ったばかりの傘がさっそく使えるのならうれしい。で、傘を差して歩き、いつも散歩している海でも行こうと歩いていると、日が照ってきた。

晴雨兼用なのでそのまま差していると、海に大きな半円の虹がかかっているのを発見。こんな大きな虹を見るのははじめてだ。そういえば虹を見るのは久しぶりだなあと思い、ベンチに座って一休み。2年前の7月、海外研修へ出たパリで、セーヌ川岸でバスを待っているとき、遠くに見た虹が最後だったなあと、あの日も突然の雨に降られたことなどを思い出していた。

海にかかる虹は大きくて、何の障害物もないので、地球が丸いということを教えてくれる。虹は架け橋のイメージだったり、何かの終わりの象徴だったり、夢を意味していたり、文学でもいろんな作家が扱ってきた魅力的なモチーフ。カメラを持っていなかったのが残念だが、せわしない日常のなかの一瞬の光のような時間だった。傘を買っていなければ、雨降りのなか海まで歩こうと思わなかっただろう。晴れてきてもそのまま差して歩いて、その空を閉じた瞬間に新しく現れた空の幸福。

6月に締切だった原稿の類はぜんぶ守れなくて、いまだに手をつけてないものもあるが、7月初旬にここでも触れていたゴシックロリータの講演を終えて、その講演を元に書いた論文を提出したばかりで一休み。2ヶ月近く一日も休みがなくて、授業のない週末は調査に出たりと、ほんとうにめまぐるしかった。

Japanese Fashion Today: Gothic and/or Lolita? というタイトルで講演した。特に「ゴスロリ」という言葉を今回は探求していて、実際に彼女たちの写真を撮りに、大阪のアメリカ村へも出掛けた。この手のスタイルのファッションを扱ったブティックがその辺に集中しているのだが、この街は70年代からヒッピーやサーファーなど、新しいファッションスタイルの発信地であったし、いつもユニークな人々に出逢うことができる。

簡単にまとめるのは難しいのだが、たとえば、今流行している「モテ系」ファッションというコンサバ系のストリートファッションと比較するとわかりやすいかもしれない。わたしの今回の主旨は、ストリートファッションでありながらも「ドレスアップ」し、伝統や文化などを重んじるあるいは継承しようとする姿勢をもっているところが独特であるのだということと、その伝統や文化は本来は欧米のものであること、また相反する西洋文化のイメージをひとつに融合してしまうところに「日本力(りょく)」(こんな言葉があるとするなら)があるのだということだった。英語で話す、あるいは英語で書くということで特に、世界へ向けて正しくこのファッションの紹介をしたかった。

話を戻すと、「モテ系」ファッションもその意味では、ドレスアップするストリートファッションで、女らしい(女の子らしい)、フェミニンである(ガーリーである)というところも共通点はあるのだが、それは「異性に愛されるために」という目的(建前かもしれないが)を明確にしているという点で、わたしの研究対象の「ゴシックロリータ」とは違っている。つまり、女らし「すぎる」、フェミニン「すぎる」という、「過剰」によって支えられているのだ。それは、機能とは関係のないフリルやレースという細部へのこだわりや、以前ここでも書いたことのある見えないところ(下着)への独特の態度にもつながる。しかし「過剰」は「異常」ということに一見落ちついてしまうように思える。

大学のゼミの学生に、「下妻物語」の映画を見せたり、「ゴシックロリータ」ファッションの雑誌を見せたりして、ディスカッションもさせてみたが、彼女ら彼らは、このファッションに、とても厳しい。実際、このファッションを嗜好する女の子にインタビューさせてもらったときにもわかったが、このファッションは 'weird' つまり、おかしい、変な、普通ではない、というネガティブな反応を浴びてしまうと言う悲しい体験もともなうのだ。つまりそれは「愛されない」ということだが、それでも、彼女たちは自分たちの着る物にとことんこだわる。

資料収集を協力してもらった、わたしの強力な助っ人である可愛いゴシックロリータ少女によると、二人連れで歩くときに「王子系」というファッションを一方の女の子がすることがあるということだった。つまり、シンデレラにとっての王子のような、そんな存在を衣装で作りあげるのだ。黒いコスチュームは燕尾服を模したような半ズボンで、フェミニンでもある立ち襟の白いシャツ、ステッキを持っているという、あの王子様スタイルである。けれども、彼女たちにはずせない白黒ボーダーのハイソックスを身につけているところがいわゆる王子様ではないところで、阪神タイガースのユニフォームではないけれど、これは反体制や囚人服のイメージも持っている。

ヴィジュアル系バンドの影響も大きいスタイルだから、彼らの中性的なイメージを伴う美意識も考えにいれなければならないわけだが、性を超えるファッションの今を考える上でも多くの材料をもたらしてくれる。わたしの場合、きっかけは10年ほど続けているヴィヴィアン・ウェストウッド研究からだが、この「ゴシックロリータ」ファッションは、ほんとうにユニークな現象なのだ。

母から渡された新聞の切り抜きで、ニューヨークのFITで教鞭を取っておられる社会学の先生も、このファッションについて言及されており、日本ではどうなのかわからないのだが、海外ではすでに研究対象として取り組んでいることを知った。英語で発表するにはもってこいのファッションのなのだ。日本のファッションなのか、あるいは欧米のファッションなのか、そんな議論を超える、つまりナショナルなものをとっくに超えている、新しいファッション。

擁護ばかりしていると研究者の態度としてはいただけないので、もう少し距離を持ちながらこのファッションを眺めてみると、ヴィヴィアンウェストウッドの今=伝統回帰やロマンティシズムへの憧憬と、ヴィヴィアンウェストウッドの過去=体制、オーソドックスなものへの抵抗と破壊的な態度、音楽ムーブメントとの連動、このどちらをも志向し、ポピュラーにしてしまい、「奔放に身につけてしまった」ファッションだといえるだろう。

つまり、わたしには、所詮ヴィヴィアン・ウェストウッドのフェイクとしか見えてこないということ。フェイクという言葉に語弊があるのなら、借りること、物まね、でもいいかもしれない。

しかし、人は、真似から学ぶ、借りることから作っていくことも大いにあるわけなので、かならずしも悲観的に語っているわけではないが、長らくこのデザイナーとつきあってきたからいえる、わたしだからこう言ってしまうのだ、ということで、済ませてもらってもかまわない。

だから借り物や物まねのままにならないようにがんばって欲しいと思うわけだが、「言葉遣い」や「身のこなし」などもこの手のファッション雑誌で教育的な配慮としてページがもうけられ、ゴシック精神を養うべくの「文化」や「芸術」が紹介されている。つまり、たくさん「勉強」していることで、単なる「コスプレ」との差異を強調している彼女ら彼らだが、慇懃無礼な言葉遣いや振る舞いという存在も存在としてあるのだ。外側こそ内側とニーチェが言っているように、わたしも外側というファッションをあほみたいにだらだら研究し続けているわけだが、文章をきちんと読む力や、一人で物を考えたり社会と闘っていく力を身につけなければ、それはフェイクのままで、にせものと言われても仕方がないのだ。

2004年に生まれた日本ではじめてのSNS(Social Net-working Service)「ミクシィ」上では、「それはゴスロリではない」というおもしろいコミュニティがあり、彼ら彼女らは、かなりこのファッションの問題意識に自分の言葉で迫っている。わたしはここで、講演や論文のための写真の貸し出しを募集してみたが、きちんと文章を読まず、イメージだけで言葉を投げ捨てたまま、という反応など、悲しい現象も体験した。きちんとした対応で、親切に協力してくれた女の子もいるのだけれど、残念なこともあったというわけだ。

今回の仕事はいろんな人に協力してもらい過ぎて、謝辞を書き出すときりがない。視力の問題だけではなく目の悪いわたしは、コンタクトレンズを入れてもよく見えてないことが多く、行動がとろいというのもあるが、市場調査では困難を極めた。写真が嫌いというのもある。この子は「和風ロリータだ」と思い、声をかけようとして見失い愕然として、ベンチに座っていると、和ロリ代表ブランドの「卓也エンジヱル」を着たかなりわたし好みの(かわいい!)女の子が歩いてきたり、一枚も撮れなかったなあと助手と一緒に晩ご飯を食べた後、お茶を飲んでいたら、「コテロリ(コテコテロリータの略)」の女の子が、すぐわたしたちの後ろに座っていたらしく、彼女が店を出る瞬間に助手がそれに気付いて、写真撮影させてもらったり、と、いろんな偶然にも助けられた。

働かざる者、着るべからず。体を張って、今はこの研究を続けている。好きな服を着るためには働くしかない。この夏は傷んだ体を持ち直すべく、立て直しにあてたい。インドかタイにでも行って、この腐った日常から離れて、骨休みしたいところだけれど。とりあえず「下妻物語」の桃子のように、レースが美しい日傘でも差して歩き、どこかへ飛んでいってしまいたい、と街を浮遊しながら、空想する感覚で生き延びるしかない。外へ出るとき人は服を着なければならない。そんな「不確かなわたし」を支えているのは、この夏届いたばかりのアイルランドの伝統的デザイン。王冠の元、二つの手が一つの心を結ぶCladdagh、それはかろうじて「わたし」と戦闘服をこの地に留めている。

(2006,7,23)

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